座喜味城跡

座喜味城跡は琉球の世界遺産の一つに含まれる城跡です。かつては米軍の信号所として使われていたようです。小規模ですが湾曲する城壁が美しい城です。

本土の城とは明らかに異なる曲線とアーチの城壁。

喜味城跡

こんな曲線は本土の城郭にはありませんね。建物が残っていないのが残念です。

喜味城跡

勝連城

沖縄の世界遺産の一部になっている城跡の一つが勝連城。今帰仁城跡などと比べると規模は劣りますが、海辺に立つきれいな城跡です。

駐車場及び小さな博物館と道を挟んだ向かい側が勝連城の入り口。

勝連城入り口

勝連城にはさほどの見ものはありませんが、海の見える風景は美しいです。

勝連城と海

斎場御嶽(セーファーウタキ)

沖縄で最も来たかった場所の一つが斎場御嶽(セーファーウタキ)。沖縄の伝統的な聖所であると同時に、世界遺産にも指定されている場所です。琉球王国の王家とも深いつながりがあるところです。

斎場御嶽(セーファーウタキ)

でも女房は関心を持たず、眠ってしまった末娘と車の中に残り、上の子たち二人は、途中で見つけたイモリの方に関心があった様子。a>。

沖縄首里の玉稜(たまうどぅん)

玉陵(たまうどぅん)は首里城跡の近く、守礼門から外に出て少し歩いたところにあり、緑の中にたたずむ琉球王家歴代の墓所です。

1501年に琉球の尚真王(在位 1477~1526年)がその父、尚円王の遺骨を見上森陵というところから改葬するために築かれ、それから第二尚氏王統歴代の陵墓となりました。最後に玉稜に葬られたのは尚泰王で、1901年のことです。その時の様子は写真で見ることができます。

沖縄・首里の玉陵

玉陵の墓室は三つに分かれています。上の写真(合成)だと手間に見えるのは中庭への入り口の門で、その奥左から三つの入り口が確認できます。

真中の部屋(中室・汁乾室)は洗骨前の遺骸を安置する部屋です。沖縄の習慣では、遺骸は一旦骨になるまで待って、それから洗い清められ、埋葬されたそうです。

東室(向かって左側)は、創建当初には王と王妃が葬られました。西室には王の家族の中でも限られたものだけが葬られたそうです。

玉稜全体のつくりは、当時の宮殿を模したもので、石造建築です。

玉稜は沖縄戦で大きな被害を受け、かなり破壊されてしまいましたが、修復されて現在に至っています。

玉陵

玉陵の敷地内には今でも拝所が設けられているほか、ガジュマルなどの亜熱帯の木が多く、静かでほっとする場所です。

沖縄・首里城の園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)

園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)は首里城の城門を出たところ、守礼門の近くにある石の門です。通り過ぎれば何も気づかないような鄙びた門ですが、世界遺産群のひとつに指定されています。

園比屋武御嶽石門

御嶽(うたき)というのは、琉球では拝所のことを指しているようで、首里城内にも首里森御岳(すいおいうたき)という場所があります。

園比屋武御嶽は、かつて琉球王が首里城外へ出て旅をする時に、往路復路の無事を祈願した重要な場所だったそうです。

石門の裏に広がる山一帯が聖所だったようで、かつては石造りの拝殿がありました。創建は1519年頃、玉稜を造営した尚真王(在位 1477~1526年)の手によるものと伝えられています。

ただし沖縄戦で破壊され、1957年に石門の周辺が復元されています。

ここはまたまた、琉球国では最高位の神女、聞声大君(きこえおおぎみ)が即位する時にも最初に参拝する場所で、聞声大君はその後、やはり世界遺産に指定されている斎場御嶽(せーふぁーうたき)へと向かったそうです。

沖縄各地に残るうたき同様、園比屋武御嶽にも、現在でもお参りに来る人があるそうです。

沖縄 首里城の守礼門

2千円札の図柄に使われたことでも有名な守礼門は首里城の正門でした。

扁額(門の上部に掲げられている額)に「守禮之邦(守礼之邦)」と掲げられているので、守礼門と呼ばれるようになりました。尚清王(在位1527~1555)に創建されたと伝えられています。

中国からの使者、冊封使(さっぽうし)が来る時に「守禮之邦」の額を掲げ、琉球が礼節を重んずる国であることを示したそうです。それ以外の時には「首里」という額が掲げられていたとか。

かつての守礼門は沖縄戦で焼け落ち、現在の守礼門は1958年に再建されたものです。

守礼門

この付近では、琉球の民族衣装を着て記念写真を撮ってもらえるサービスが利用できます。

また、夜にはライトアップされていることもあるそうですから、首里を夜に訪れる場合にはぜひどうぞ。